大日本茶道学会は、茶道の流派のひとつです。大日本茶道学会という名称は、伝承されてきた数々の先人の茶道の精神性と技を、近代的な環境に照らし合わせて研究・公開していくことで、後世に伝えていくことを目指した創設者田中仙樵の理念に基づいています。現在は、本部教場の他、全国各地の支部組織などを通じて、多くの方々が学んでいる有力な茶道流派の一つに数えられますが、創立の理念を忘れずに、より崇高な使命を担うべく努力をつづけています。 大日本茶道学会では、一つ一つの意味を大切にしながら所作を行うことで、先人の伝えようとした心の原点を自分のものとし、実践できるようになることを一人一人の目標としています。
大日本茶道学会の紋は、紋所である「三剣」を重ねた形を表現している。それは「三剣」に様々な意味が重ねられていることを象徴している。
大日本茶道学会の創立者である田中仙樵は、建仁寺管長である竹田黙雷から、「智・仁・勇の天下の三徳を兼ね備えよ」と庵号を与えられた。多くの徳から三つに絞られたのは、田中仙樵の本名が、三本足で立つ器の「鼎」であることに因んでいる。茶道文化の奥深さを、紋章を重ねることで、示唆しているのである。また、「三剣」が紋として選ばれたのは、田中家の家紋が「剣カタバミ」であることにも関係している。
明治8年(1875)生。本名 田中鼎(かなえ)。
京都府丹後の大庄屋の総領として生まれる。同志社では主に漢学による教育を受け、漢籍を習田雪峰に学ぶ。郷里で茶の湯を習い、本格的に稽古をするため京都に出て、裏千家・前田瑞雪に師事、円能斎より一子相伝十二伝台子の皆伝を受ける。後には、石州流も皆伝。
建仁寺管長竹田黙雷老師のもとに参禅し、鳥尾得庵らの知遇を得て、明治31年(1898年)、茶道の復興を志し大日本茶道学会を創設。
流儀の制約を超えた交流研究を求めて「書物の発行」「点前の公開」など茶道の改革に乗りだす。この試みは、現在の月刊『茶道の研究』の刊行や「茶道夏期講習会」に至っている。
更には、『南方録』をはじめとする茶書研究に専念。特に『南方録』の再評価活動は、近代における茶道の精神性への着目へとつながっていった。出版活動・講演を行う他、東京農業大学造園科講師として、茶庭を志す造園家を生み出すなど、茶道文化の本質を追求した生涯は、社会的にも大きな影響を及ぼした。 父翁山の影響で南画に長け、書を西川春洞、俳句を村上鬼城、能を渡吉外次郎について習い、終生の趣味とした。
昭和3年(1928)生。本名 博民(ひろみ)。
幼少より、祖父である田中仙樵について茶道を学ぶ。 商船大学を卒業後、二松学舎大学を経て、早稲田大学大学院文学部東洋哲学科に入学。中国古典・哲学・詩文等を学び、茶道思想史の研究に精励した。文学修士。学業と共に仙樵の下で茶道の研鑽に努め、昭和32年大日本茶道学会副会長に就任、仙翁宗篤の号を付与される。
36年会長に就任。教場を新設して本格的に指導を開始し支部を強化する一方、カルチャーセンター・文化センターなどから一般講演会の講師として招聘を受け、茶道の特質や精神性について数多くの講演を行い、当会の茶道教室が設置されるところとなった。流儀に偏らない豊富な経験と知識を求められて、各所の茶室や茶道教室の設計にも参画した。
また、企業からは、茶道を通じた職員の教育を委嘱され、現代に即応する合理的、理論的なカリキュラムで教授に当たり、特に学校については、指導者の講習会を定期的に開き、講師の派遣を行った。
寺社においては献茶・茶会を行い、「茶の湯」の映画の製作やテレビの教育番組に出演することで、メデイアによる茶道の啓蒙、文化普及に尽力してきた。
数多い著作の中でも『茶の本―用と美』(新潮社刊)は、歴史上の記録に基づいて文化財の茶席の中に往時の茶器を、茶人として使う立場で飾り、写真と解説により美的観照まで体現化し、その後の研究や出版に大きな影響を与えた。随筆「茶道端言」の一文「挨拶」は、中学校の道徳の教科書にも長年にわたり取り上げられている。
平成2年、財団法人三徳庵を設立。平成25年公益財団法人三徳庵理事長退任後も、あらゆる機会をとらえて、茶の湯の美と精神について伝統の姿を示すとともに、将来を見据えた茶道人の育成に努めた。