令和元年6月16日 大日本茶道学会仙台支部創立六十周年記念講演会にて、「利休はなぜ追放されたか」と題して、市民の方々もお迎えして講演を行いました。
「なぜ追放されたか」との問題設定は、切腹否定説が取りざたされる昨今、死因を考え直した時に、どんなに側近から「利休を処分すべき」と進言されても、秀吉が、是としなければ、駄目ではないかと思い当ったため。
1)信長にとっての茶
信長が茶に注目したのは、堺の商人との交際にとって必要のためであった。しかし、実際に茶会を開けたのは、武田信玄が没して浅井・朝倉を滅ぼしてからになった。そのためか、信長の茶会には、ライバルを倒したとか、足利将軍に匹敵する権威を自分が持っている(蘭奢待の切取り)など、政治的メッセージが込められたものになった。
さらに、信長は、嫡男信忠に家督を譲った際にも手元においた茶道具を、手柄を立てた武将に下賜するようになった。
2)信長後継を求める秀吉にとっての茶
信長没後、秀吉は、信長時代の茶を「御茶湯御政道」と回顧し、自分一人が茶会開催を許されていたかのように自身の功績をアピールし、また、茶会でも信長旧蔵の道具を信長茶会に参加した利休をはじめとした堺の茶人たちを集めて開催する等、信長の継承者にふさわしい自分をアピールする場として活用する。例えば、柴田勝家を倒した後に家康から送られた茶器を飾るといった具合である。
3)武家関白政権確立後の秀吉にとっての茶
聚楽第で、官位の序列に則って、家康らを従わせて拝謁できるようになった秀吉にとっては、なにも家康から献上された道具を茶会でひけらかして、家康との関係をほのめかす必要はなくなった。むしろ、官位を斡旋し、豊臣・羽柴姓を下賜した大名が、御礼に聚楽第に参上して儀礼的な拝謁を済ませたのちに、秀吉と身近に接して、心服させる空間として極小二畳の茶室は機能するようになってくる。そうすると茶室で亭主をつとめるのは、利休よりも秀吉でなければならなくなっている。
このような状況下で、利休追放の進言を受けた秀吉が、「利休がいなくなってもかまわない」と承認してしまったのではないだろうか?
伊達政宗ゆかりの仙台では、政宗も絡んでくるといわれる利休の追放劇には関心が高く、熱気に押されて思わず、近著『千利休―「天下一」の茶人』で書いたよりも、はっきりと仮説を提示することとなりました。
※河北新報(2019年6月17日)に、今回の講演会の記事が掲載されました。
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