抹茶が手に入りにくい状況が、一般向けのメディアでも盛んに報道されるようになってまいりました。
抹茶の輸出が急増した背景として、抹茶のおいしさに欧米の人々が、目覚めたことが挙げられます。「マッチャ」を飲んでいる映像を見ていたら、「現代の清国人にとっては、茶はおいしい飲み物であっても理想ではない」という『茶の本』の一節が浮かんできました。
『茶の本』は、宋代に、茶は詩的な閑つぶしでなく自己実現の方法となったと述べます。さらにその茶の理想を、継承したのは、日本であり、清朝ではないと主張します。天心の主張は、元朝において宋代のあらゆる果実は破壊されたという認識に基づいていますから、現在そのまま通用するものではありません。
しかし、天心が、茶は単なるおいしい飲み物であっても理想ではないと述べたことが、日本で、「茶を飲むことは、純粋さと優雅さを崇拝する口実となり、主人と客が日常の無上の至福をその場に応じて作り出す、神聖な役割を果たすものとなった」と展開したことまで、否定してはいけないと思います。
抹茶を茶人以外の人が飲み始めるようになる時、茶道での抹茶はたんなるおいしい飲み物以上の意味と役割を持っているということを、内外にきちんと示せなければいけないのではないかと思います。
満洲民族が大陸部も統治していた清朝の時代に書かれた『茶の本』の時代的な制約は踏まえながらも、岡倉天心が見抜いたテーイズムの本質は、大切にしていかなければなりません。天心ならば、茶道の危機は抹茶の不足よりも、理想とロマンを消失することでもたらされる、と言うことでしょう。
思えば、今年は『茶の本』が出版されてから、120年になります。