珠光の「心の文」は、次のように結ばれています。
「心の師とハなれ、心を師とせざれ」と古人も言われし也。
「心をコントロールしなさい、心にコントロールされてはいけません」というように、自分の心を客観的に眺める「心の文」では、心と自己が区分されています。心と自分との関係は、さまざまな分野で異なる視点から捉えられていますが、現代人は心を自分自身と受け止める傾向があるため、傷つきやすくなっているとも指摘されています。心が傷つけられても、本当の自分自身は別に存在すると考えることは、「心の文」の前提になっています。
さて、自分がコントロールする対象としての「心」と、自分をコントロールする主体としての「心」は、同じものでしょうか。デカルトは『情念論』で心の働きを、積極的に自分で変えられる「意志」と、消極的な心の働きである「情念」に区分しています。デカルトは「驚き」、「愛」、「憎しみ」、「欲望」、「喜び」、「悲しみ」の六つを基本的情念として取り上げ、これらの基本的情念から生まれる様々な情念に対して、どのように対処するかを論じています。「心を師とせざれ」と言われた場合の「心」は、「情念」に置き換えてみても通じるように思います。
「心の師とハなれ」の「心」は、「意志」に相当すると考えられます。これは「湧き上がっている情念に引きずられないように、自らの意志で情念をコントロールしなさい」という風に解釈できると思います。湧き上がってくる情念に身を任せてしまうのは、心(情念)が自分自身であると思ってしまうからでしょう。心(情念)を見つめて制御できる自分を取り戻すことの重要性は、現代こそ増しているように思います。