御茶ノ水にある聖橋は、関東大震災の復興事業として建てられました。その名前は、橋の両側に位置する「湯島聖堂」と「東京復活大聖堂教会」(ニコライ堂)に由来します。 儒教とキリスト教のイメージがダブってしまうのが、現代の聖人といえましょう。
岡倉天心の『茶の本』は、利休が自刃する場面で結ばれます。自刃する前に最後の茶会を行う利休は、イエス・キリストの最後の晩餐になぞらえられているかのようです。
利休を「茶聖」と呼んだ例としては、『源流茶話』を残した藪内竹心が最初になるかと思います。元禄期に活躍した人間なら、竹心ならずとも聖人に、禁止されていたキリシタンのイメージが入り込むことは考えにくいものです。ましてや、儒者出身との出自説が唱えられたほどの儒学的教養の持ち主の竹心です。万人が踏み行なう手本となる人物として聖人を考えていたと思われます。
この点にこだわると、『山上宗二記』の利休が、「心の欲する所に随へとも矩を超ず」という論語の言葉を常に唱えていたとされながらも、聖人ではなく、名人と評価されていることが気になりました。
「名人一人外ハ無用」とか、「平人宗易ヲ其儘似セタタラハ邪道」と言われるようでは、聖人とはいいがたいわけで、利休の茶法を源流と位置付ける竹心の中で、名人から聖人への意味付けの変化が起こっています。
こうした変化は、利休を自分たちの茶の手本として受け止めていきたいという利休後の人々によってもたらされつづけており、仙樵居士も理想の利休の姿を求めた一人です。
見方を変えると、後世の茶人たちが利休の茶に自身の茶の理想を重ね合わせようとした営為が、茶道を現在につなげてきたわけです。この意味を正しく受け止めることが大切です。