世阿弥は、『花鏡』の結びで、「初心忘るべからず」と三箇条の口伝を記しています。その口伝では、是非の初心、時々の初心、老後の初心の三つです。
若くて未熟だった時の状態を忘れずに、その状態に逆戻りしないように注意するための判断基準となるのが、是非の初心です。時々の初心とは、各年齢にふさわしい曲目をその段階では初めての経験として習得し、後になっても忘れないように身につけておかなければ、ならないという戒めです。老後の初心とは、老年期になっても、その年齢にふさわしい新たな芸に挑戦して、初心の状態を維持することを示します。
このように世阿弥は、生涯を通して常に初心ということを念頭に置かなければならないと説いているわけです。
そのように重要な初心を忘れないという教訓を残した意味を、「しかれば、能の奥を見せずして生涯を暮らすを、当流の奥義、子孫庭訓の秘伝とす」とまとめています。私は、世阿弥が子孫に「わざと芸の底を見せないようにする」という配慮をしたことの意味が腑に落ちないでいました。
初心者の心には、「私は何かを達成した」という考えはありません。すべての自己中心的な思考は、私たちの広大な心を限定してしまいます。何かを達成しようという考えを持たず、自分という考えもないとき、私たちは真の初心者でいられます。そのとき、私たちは本当に何かを学ぶことができるのです。」(鈴木俊隆著・藤田一照訳『[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド』PHP研究所)
この言葉に接した時に、世阿弥は、子孫が「何かを達成した」という感覚をもってしまって、子孫が「本当に何かを学ぶこと」ができなくなってはいけないと配慮したのだと理解しました。ここまで出来たという達成感は学びを続けていく上で大切な伴侶ですが、もうできあがっているとうぬぼれる達成感は、歩みを止めることになります。