大日本茶道学会 - 公益財団法人三徳庵

令和6年11月:ふれあう

 「人がさわったもの」、「人がふれたもの」という言い方に強いて違いを見つけようとするとどんなことがいえるでしょうか?

 「接触感染」という言葉が広がった今では、どちらにも拒否感を感じて区別のつかないという方もおいでだろうと思います。

 しかし、痴漢などからは、「さわられた」といい、聖者などからは、「ふれられた」という言い方すること、また、物体になどには、普通は、「さわる」といって、「ふれる」と使うときは、丁寧さや優しさを込めるなどの特別な場合であることが手がかりになりそうです。

 「さわる」とは、相手の同意なしの接触、あるいは、物体などの相手の同意を前提としない対象への接触。
 「ふれる」とは、相手が同意、あるいは、相手が受け入れる形での接触、あるいは、物体にしては、対象を傷づけない軽微な接触。
 という区別ができないかと思いました。

「触りあう」と書いて「さわりあう」とは読まずに、「ふりあう」と読み、「ふれあい」という言い方もあります。「ふれる」ことは、人間関係を発生させると含意されていたのではないかとは、「袖触り合うも多生の縁」という言い方からも推測されます。

 亭主がふれた茶碗を取り込み、客の間を茶碗が移動するという茶の湯の文化は、文字通りの「ふれあい」を通じて、共感的でいつくしむような情緒的な交わりを達成することを目指していたのだと思います。

「接触感染」に注意することが指針としていまだ掲げられている現在、公の場では、「接触感染」への配慮を優先させざるを得ないこともあるかと思います。そうした場では、文字通りの触れ合いが減った分、それを補うコミュニケーションがより必要とされているとも言えないでしょうか。

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