道ですれ違う人に対して、わざと無関心な態度をとることは、都市生活にとっては、必要なものともされていますが、なぜなのでしょう。
近代社会の生活の場は、労働に従事し、教育を受ける公的な領域と、家庭生活に代表される私的な領域に分けられてきました。そのどちらにも属さない都市という第三の領域は、余分なものだけではなく、危険なものになりかねません。なぜなら、相容れない様々な目的と欲望をもった人々が、偶然に同じ場所にいることで、暴動等が起こり、社会秩序が破壊される可能性があるからです。
大げさなようですが、都市で革命や騒乱が起こってきた歴史を振り返れば、なるほどと頷かされます。それゆえに、必要とされる配慮が、儀礼的無関心と名付けられています。
「儀礼的無関心とは、おそらく、こうした秩序の社会性の危機を、共在する他者に「あなたとコミュニケーションする(いかなる意味でも接続する)つもりはありませんよ」とはっきり示すことによって克服する方法論として生み出されたのだ」(北野暁大『広告都市東京』廣済堂出版)
「儀礼的無関心」とされる他者への態度は、新型コロナウィルスの感染拡大によって、他者に感染させない、感染させられないためという配慮によって、街中を歩くときの作法として一層広まったように感じます。
しかし、茶会の場でも、参加者同士が、「儀礼的無関心」で過ごして良いのでしょうか?同じ場を共有する人々であることは、「一座建立」という言葉でも、強調されていました。
同じ目的をもって集った人々の間では、儀礼的無関心は、不適切だという認識を新たにするために、なぜ、儀礼的無関心が必要とされたのかという根拠へと遡ってみました。