大日本茶道学会 - 公益財団法人三徳庵

令和5年4月:古典的公共圏

 古典とは何か、と聞かれたらどう答えるでしょうか?

いわゆる過去の名作の中でとく評価の高い作品名を具体的に挙げることで、答にされるでしょう。

しかし、いくら名作であっても、ある条件を欠いては、「古典」とはいえなかったのだとは気がつきませんでした。その条件とは、注釈や注釈書をもつ権威を有する書物を有することだといいます。古くから人々がその本の正しい読み方をもとめて注釈がつけられるようになり、注釈によって正しい読み方が権威づけられてきたかどうかということです。

日本には、「和漢」の二つの古典が存在します。その結果、古典的書物の素養・リテラシーと和歌の知識・詠作能力とによって社会の支配集団(院・天皇と公家・武家・寺家の諸権門)の構成員が文化的に連結されている状態が生じました。それを前田雅之氏は、「古典的公共圏」と名づけておられます。これは、明治時代以前までは確実に存在していた共通の教養のあり方とその基準を明確に摘出した言葉だと感銘を受けました。

というのは、茶道具がどのように愛好されてきたのかを考えるには、政治的思惑といった表層的なものの深層に、享受された共通の教養基盤の存在があると感じそれに近づいていきたいと模索していたからです。『枕草子』の講義を行ってみたりしたのもその一つでしたが、「古典」の定義にしたがえば、近代以前に注釈書が成立しなかった『枕草子』は「古典」ではありませんでした。

『古今集』、『源氏物語』、『伊勢物語』という典型的な「古典」が、過去の人々がいかに享受したかを追体験する上では、優先順位が高いということが明確な基準を持って明示されたと感じています。
 
参考文献 前田雅之著 『古典と日本人 「古典的公共圏」の栄光と没落』光文社新書

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