堀口捨己は、『茶道全集 茶庭篇』の月報に「茶を読む」という記事を寄せています。
「茶を飲む」ではなく、「茶を読む」としているのは、茶会を開いたり参加したり、点前ができたりする人でなくても、「茶の湯の文化的価値を認め、その故にこそそれを愛し、それを語り読む人であればよいのです」と定義しているからです。
久しぶりに読み返してみると、この時、堀口捨己は、階段から足を踏み外して尾骶骨を痛めて、茶会に行けなくなっていたことに気が付きました。
昨年、茶会の中止の連絡を受けた時は、「来年には」と軽く受け止めていたのが、今年も中止と聞くと「来年はどうなるのだろう」という気持ちで受け止めるように変わってきているこの頃です。
尾骶骨を痛めたわけではありませんが、私たちも堀口捨己が「茶を読む」と記したのと同じような状況に置かれているわけです。
堀口は、建築や庭園に、茶風な雰囲気をもったものを特に好む人達や、茶室を作っても、それを書斎や小応接としている人も「茶を読む」人に含めています。
さらに、「読む」ことを、本を読むことに留めずに、「心を読む読心術」にも拡大しています。そして、「茶湯の心を読みとり、茶湯の心を愛し、茶湯の心を行う人」が、「茶を読む」人であるとして、「レーゼテーは現代的に意義のある、しかも楽しい事のように存じます。」と述べて「共に茶を読もうではありませんか」と結んでいます。
「レーゼテー」とは、上演を目的とせず読まれることを目的に書かれた脚本形式の文学作品を指す「レーゼドラマ」から着想を得た堀口の造語です。
茶会や稽古に行けないからと茶から遠ざかってしまった、と考えるのではなく、茶会に行けなくなった堀口が提案した「茶を読む」を実践するチャンスが巡ってきたと考えたらいかがでしょうか。