最初の緊急事態宣言が発令されてから、4月で一年になります。
二度目の宣言は解除されても、思う存分できない花見も年が重なると、心を穏やかに保つことは、なかなか難しいことだと感じております。日本での海外と比べたらけた違いに低い感染状況を、十全に対策や政策に生かせない行政の在り方に文句を付けたくもなります。
しかし、他人に文句を付けたくなる心の在り方が問題なのだと、アルベール・カミュは、問題提起をしました。
昨年来、世間で盛んに読み返されるようになった小説『ペスト』では、ペストの蔓延による町全体の監禁状態が描かれています。しかし、カミュが問題にしたのは、疫病そのものではありません。登場人物の行動と思索を通して、ペストとは私たちの内面にある状況に気が付かせるための比喩であるとの読解がなされています。
「ペストとは自分の外側に実在する何かではなく、「私」の不幸の説明原理として、そのような「実体化された悪」をおのれの外部に探し求められずにはいられない「私」の思考の文法そのものだということである。」(内田樹「20世紀の倫理」『前-哲学的 初期論文集』草思社』)
「自粛がつづいたのは○○のせいだ」という風に、外側に悪者を求めようと考えること自体が、ペストにかかっているということなのだ、と示唆することで、カミュは、為政者を筆頭に私たちが、外に悪者を求める思考方法に陥ってしまいがちなことに警鐘を鳴らしています。
一方、古代ローマの鉄人政治家セネカは、「不道徳を糾弾する際は、最初に自分自身の不徳を糾弾する」という言葉を残しています。カミュは、古代哲学の伝統を踏まえているようです。
他人の不道徳から糾弾する思考方法に染まらないように努める人間をカミュは「紳士」と呼びました。
「礼節」として伝えられているものを守ることの根本的な価値をカミュは、再提起しているようです。