3月になったばかりで、菫の花を待ち望むのは、少し気が早いかもしれません。また、桜ならばまだしも、菫の花とは、どういう理由かと思われたかもしれません。
それは、小林秀雄が、「菫の花」を例に美意識を磨くことの難しさを論じているからです。野に咲いている小さな花に気付いて、「菫の花」だ思えることは、素敵なことだと思います。
しかし、小林秀雄は、「菫の花」という言葉で、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことに満足してはいけない、と注意を喚起します。
「言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗(かつ)て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。」と続けています。(小林秀雄『美を求める心』)
花を見かけると、「あれはなんという花だっけ」とまずは、花の名前を思い浮かべようとします。そして、名前が思い浮かべられないと、その花から目をそらしてしまうような経験はありませんか。
小林秀雄は、自分の内側から湧き上がってくる「美しい」という感覚を、言葉を介さずに味わうことを勧めています。それならば、花の名前が分からないときは、むしろ言葉の邪魔が入らずに、その花の美しさを十分に味わうチャンスだと考えて、花を眺めつづけるのがよいのではないでしょうか。
茶席においても、これは、応用の効く考えです。茶入や、茶碗の銘がわからなくても、じっくり見ればよいのです。さらには、軸の文字が読めなければ、むしろ線の動きからの文字の美を味わうチャンスだ、とまで徹底できれば、先人の気が付かなかった美しさと出会うチャンスが広がります。
小林秀雄の言葉は、茶席が美意識を磨く場であることを思い出させてくれました。