茶道、華道、香道にかぎらず、柔道、剣道、空手道と、「道」を標榜して活動しています。
「道とは、日本的な価値観で、ある物事を通して、真理を追究、または自然かつ完璧な所作を目指し、精神の修練をすることでもある。」(寺田透『道の思想』)という定義を手がかりにさせてもらいましょう。
真理の追究と自然かつ完璧な所作を目指すことの価値が等しいものとされていることは、キリスト教を基盤とする西洋文明では考えられないことでしょう。真理とは神に由来するもの、あるいは神そのものと位置づけられているからです。
道ということばは、『論語』でも多様な用例があります。「道はなお路のごとし」といっても朱子的な解釈と、伊藤仁斎の解釈は違うという指摘されています。朱子の規定の仕方は、人が踏み外してはならない道という強い規範性をもって言われるのに対して、伊藤仁斎は、人びとが通行、往来することができるから道が存在するのだと、道が結果として生じたことを重視したと言われます。(子安宣邦『仁斎学講義』)
朱子と仁斎の違いは、ルールをわたしたちの経験から独立して超越的に存在しているものとしてとらえるのか、ルールを必然性があって存立したものとしてとらえるかの違いに相当します。
作法もルールの一種ですから、この考え方は作法をどのようなものとしてとらえるかとの違いにつながります。
どちらの捉え方が哲学的に正しいかはさておき、作法が必然性があって生まれたものととらえて、その生まれた理由を説明することが、作法を実践してもらう上では有効ではないかと考えます。
この姿勢が、仙樵居士の理論を重視するという考え方にあったと考えています。