節分に、鬼を払うために豆まきをする習慣は、宮中行事の追儺(ついな)に起源があるとされます。
目に見えない疫鬼を追い払っていた役の人間が、次第に鬼に見立ててられ、殿上人から追われるように儀式が変化していったと、平安時代の儀式書の比較から指摘されているのに興味を覚えました。
対象が具体的な形をとった方が、追い払うという行為をイメージしやすかったのでしょう。その心理が、面をかぶった鬼の役へとつながっていくものと思われます。
逆に、目に見えないものは、意識されにくいことも物語っています。
思い起こせば、小さい頃は、鬼の面をつけた人に豆をぶつける遊びという程度の認識であったかと思います。鬼が、邪気の象徴であったという意味を、知るのはずいぶん後のことだったかと思います。
そして、邪気として恐れられてきた最たるものは、古来、疫病であったという認識を近年新たにさせられたわけです。
邪気には、悪気(わるぎ)という意味も含まれています。
人を憎悪する気持ちや人に害を加えようとする心といった悪意は、その人自身からではなく、外部からやってきたものという意識が、邪気の中に、悪気が含まれていた理由なのではないでしょうか?人の心は本来、悪意を持つものでないという性善説に立つ意識が、心の穢れも、祓ったり、清めたりする対象に含めていることにつながっているのかとも思います。
人間の本性がどうかは別にしても、人を憎悪するする気持ちや、人に害を加えようとする気持ちは、望ましくないとの判断が前提にあるといえば、現代人にも納得してもらえましょう。
悪気の邪気も含めて鬼として、祓うことを節分に思い起こすことが大切ではないでしょうか。