「芸術の秋」は、大正時代に「美術の秋」といわれはじめたことに由来するそうです。
私たちは、文学や美術の授業で、「自分が感じたことを自由に表現しなさい」という教育を受けてきました。 こうした考え方への転機になったのは、明治43年(1910)に発表された高村光太郎の随筆「緑の太陽」によるといわれています。
「人が『緑色の太陽』を画いても僕はこれは非なりと言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかもしれないからである。」と高村光太郎(1883~1956)は述べました。
周りで決められている約束にしたがった表現を踏襲することではなく、自分が感じた印象を表現することが大切である、との高村の言葉に背中を押されたように、大正期に入ると日本画も含めて、新たな表現を模索する新人たちが活躍を始めます。それに伴い、美術展も盛んになっていったわけです。
高村光太郎と同時代のフランスの哲学者アラン(1868~1951)は、芸術について次のように述べてます。
「あらゆる芸術は、人間が自分自身に関するなにごとかを、ただし自分ではわかっていなかったなにごとかを認識し、再認する鏡のようなものである。」
緑に描かれた太陽に対して、高村光太郎が、「僕にもそう見える事があるかもしれないからである」と述べるのは、光太郎が、「自分ではわかっていなかったなにごとかを認識」したことに通じるかと思います。
「わかっていなかったなにごとか」という表現をアランが好むのは、ソクラテスの「無知の知」につながるからでしょう。それは、自分自身を発見することにほかなりません。
芸術作品を理解しようと力まずに、自分自身に対して何か気がつければよい、という姿勢が、芸術に秋にはふさわしいかと思います。