暑い日には、冷たい水に手を入れて手を洗うことが良い気分転換になっています。
しかし、水が冷たいか、暖かいかは、本人しかわからないものです。
そのため、「冷暖自知」という禅語としては、「悟りは人から教えられて理解できるものではなく、本人が悟らなければ理解できない」という解釈が与えられたりします。
「悟り」どころか、他人の感覚すら理解することが難しいのは、冷房の温度設定をめぐって、暑すぎると感じる人と寒すぎると感じる人が対立する場面でも露呈しています。
それなのに稽古場では、「この感覚をどうやって伝えたらよいのだろうか」と悩んでおりました。
この感覚とは、「侘び」「さび」という感覚ではありません。私が意識してもらおうとおもっているのは、指先が触れているという感覚、誰もが持っている感覚・触覚です。
指先の触覚の鋭さの程度によって、所作の正確さや味わいが変わってきます。
初心の頃は、手や足をどのように動かしたらよいか、と工夫して、自分から動作を洗練させていく必要があります。しかし、熟達してきた人たちに対しては、どう動かそうかと意識することよりも、その所作を行っている指先からの感覚に耳を傾けてもらった方が、動作が自然と整ってきます。それは、触覚からの刺激に対して、筋肉が無意識的に反応するからです。
この無意識の反応の方が、不随意筋の協力も得る結果になって、意識的に動かそうとして動かした動きの範囲よりも広く、早く、なめらかだからです。そのために、「結果として出来てしまう」状態が出現します。それは、手を入れた水が冷たすぎたり、熱すぎたりしたときには、知らずとすごいスピードで手を引っ込めているような状態なのです。