大日本茶道学会 - 公益財団法人三徳庵

令和8年7月:狭義の茶花

「茶花」という言葉に明確な意味と形を与えたのは、田中仙樵の『茶花講義』が最初です。

 仙樵が昭和2年(1927)に、茶花を提唱した時代背景をいけばなの歴史と重ねて見直してみましょう。

明治31年(1898)に田中仙樵が大日本茶道学会を創立した前年の明治30年(1897)には、小原流の流祖・小原雲心氏が、盛花様式を創始しています。そして、大正12年(1923) には、自由花の理論的支柱となった山根翠堂氏が真生流を創流。また、田中仙樵が『茶花講義』を刊行した昭和2年(1927)には、 勅使河原蒼風氏が、草月流を創流しています。続いて、昭和8年(1933) 重森三玲氏らが「新興いけばな協会」を設立して、宣言文を協議するという時代の流れになります。

明治維新を迎え、西洋花や芸術概念に接して、いけばなの世界では、西洋花を取り入れ、床の間から離れていこうとする動きが力を得ていく中で、あえて和の花を床の間に入れるスタイルが茶には不可欠であると考えて、「茶花」の理論を示して、茶花を残していこうとしたのが仙樵であったと位置づけられるのではないでしょうか。

室町時代に茶の湯で床の間に入れた花から、投入・瓶花、文人花、生花というスタイルが、江戸時代に分化していくことを考えれば、茶の湯の花は、立花を除いたいけばなの母胎という言い方もしてみたくなり、一般的には、そちらの意味で「茶花」も使われます。

仙樵が確立したスタイルの茶花を<狭義の茶花>と呼べば、茶の湯の花の略称である茶花は、<広義の茶花>ということが正確なのでしょう。

こう区分すると、教習生からの型破りな花に対する「あれも茶花なのですか?」という質問にも答えられるように感じました。

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