学術的に説明する場合、茶の湯の世界は、「非日常の世界」と説明されことがよくあります。「ハレ(非日常)とケ(日常)」という区分を意識してのことです。
これに対して、茶人にとっては、茶の湯は日常にあるものだから、非日常ではない、という反発を聞いたこともあります。川上不白が、「常」と唱えたことからは、私も茶人として、非日常・日常という分け方を避けるべきではないか、と考えてきました。
しかし、「意識」の次元を分けて考えると非日常と意味づけも否定すべきでないのかと思うようになりました。私たちが、日常の動作を意識するのは、怪我をして動けなくなったときだけだったりします。実際、朝起きてから、歯を磨くまでであったとしても、一つ一つの動作を意識していたら、時間がかかりすぎてつかれてしまいます。
日常の動作は、スムーズに行なわれている限りは、特段注意を払わないものではないでしょうか?
動きに注意を払うためには、日常ならざる時間と空間が必要です。その意味での非日常でならば、とくに稽古の時間は非日常であるべきではないか、とも思います。
一方、稽古の時といっても、自分にとって身についてしまった動きには、注意を払わずに行なっているものです。初心者が、間違った動きをしたときに、思わず戸惑って「自分はどうしていたかしら」と、実際に所作をしてみないとわからなくなるのは、普段は意識化されずともきちんと出来ているからです。
茶道での学びが、しっかり身について、特段意識されなくてもすむような状態を「常」とよぶならば、その「常」が目指すべき状態であることと、そこに至るまでに「非日常」を必要とすることとは矛盾しないと思います。