珠光の「心の文」の中には、「心の下地」という言葉も出てきます。
「また、この頃、<冷え枯れる>と言って、初心の者が、備前物・信楽物を持って他人に認められないのに、高い境地にあると思って人の言葉に耳を貸さないのはもってのほかだ。ということは、良い道具を持ち、その味わいをよく知り、自分の<心の下地>によってすっかり盛りを極めた境地にいたって、後までもことができてこそ、面白いというものである。」という文脈で使われます。
<冷え枯れる>という言葉は、、と言い換えられていますが、これらは、美的な判断を示す言葉であるとカッコに入れて、「心の素地」と訳して済ませていた「心の下地」について改めて考えてみました。
美的な判断については、カントは、『判断力批判』で「美しい」という判断を示す時には、聞いている他人も、当然自分と同じように感じてくれるはずだ、と考えている、とその特徴を指摘しています。「美しい」と同様に、「冷え枯れている」といった美的判断の表明も同じ性質をもっていると考えてみましょう。
この論理を逆にたどれれば、周りの人が確かに、「冷え枯れている」と賛同するだろうという判断を下せるくらいに、経験を積んでおいてからでなければ、「冷え枯れる」と言ってはいけないことになります。
私たちは、「冷え枯れる」という状態がどういうことなのか、十分に納得するより先に、その言葉を使うと格好がよい、ということに気が付いてしまうので、内容の理解に先んじて使いがちです。そのいましめとして、「心の下地」という言葉で、自分が十分に受け止めているかを、省みなさいということなのです。