1933年、ドイツを後にした建築家ブルーノ・タウトをのせた「天草丸」は、5月3日、敦賀湾に入港します。1936年10月15日に離日するまで、日本で3年半過ごしました。
タウトは来日した翌日の5月4日に桂離宮を見学させてもらい、高く評価することで、「桂離宮の発見者」と自負するようになります。タウトの評価は、その後、日本美の再発見という文脈で翻訳・紹介され続けられますから、タウトと言えば、桂離宮を思い浮かべることになります。
一方、タウトが、日本での滞在期間の大半を簡素な日本家屋で過ごしたということは、あまり知られていないように思います。
タウトは、6畳と4畳半の二間からなる洗心亭という松林山達磨寺境内の建物に、1934年8月1日から2年3ヶ月もの間暮らしていました。この経験を元に成立した著作が、『日本の家屋と生活』です。日本人が、縁側や玄関からおりてすぐ下駄を履いたり、また下駄を脱ぎ捨てて玄関にあがったりするのを見て、タウトは次のような驚きを述べています。
「日本人の足の親指と母指球とはどうしてこんなに逞しく発達したのであらうか、また他の指も幅広く自然的なのだろうか。そればかりでなくどうして足全体の能力が欧米人よりも立派な発達をとげたのであろうか。」
タウトは、足の指先から足全体(脚)に力が通って一緒に働き、上体から腕の働きを助けている点に注目し、「日本舞踏の芸術的な形は、力の中心としての足を起点とする」と述べています。
日本的身体動作の美を実現する秘訣が、足の指の動きをよくすることにあるというタウトの発見は、茶道の所作を身につける上では、桂離宮以上に、重要な指摘だと思いました。