茶花を指導する際に「余白を考えて」とお伝えすることがよくあります。
特に籠に時期に手付きの籠を用いられたりすると、手から溢れそうなくらいに花を入れて しまわれるので、手の姿も見えるように空間を持たせてくださいという意味で余白を 考えましょうとお話しします。
日本人にとってはこの余白とは、実際に見えるものから伝わる以外に広がる世界を想像させる 素晴らしい無限の世界だったのだと思います。
絵画はもちろん、床飾りや、点前座の飾り方、道具との距離感などを考えてみても余白を大切に してきたことがわかります。適度な余白を取れば世界が広がり、また余白が大きすぎれば物が 途切れてしまったり、狭すぎれば想像するゆとりのない状態になってしまう。つまりよく聞く 「縁が切れる」という状態になるのでしょう。
文章の読み方でも同じことが言えます。「日本語の文章は行間を読む」と言われていることです。 文字で書かれていることからもっと感じ取れることも併せて考えることで、内容が深まるように なるのです。しかし、この頃は、文章に書かれていること以上でも以下でもないという取り方の 方に出合うことが多いので、行間を読む習慣がなくなっているように思えます。
テキストブックをはじめとする本でもそのページのその部分に書いてある文字面だけを読んで しまうということです。しかし、この本は何のために書かれたものなのか、全体を通して何を 伝えたいのかを考えていかないと間違った解釈をしてしまうことになります。
それは、稽古の指導のときでも同じことが言えます。先生が、ある一言からもっと想像して掴み 取って欲しいと思って言葉を選んで発しても、受け止める側が言葉尻だけを捉えて誤解すれば、 その意味も先生の意図も通じ合えないということです。単語を聞き、受け止めることが大切なの ではなく、相手が何を伝えたいのか、また相手はどう受け取るのかを考えながら人と向き合うと いうことが大切なのでしょう。
それが茶席の中でも生かされれば、もっと奥の深い時間を持てることになると思います。
教場長 田中 仙融 (令和4年8月発行 会報「えんじゅ112号」掲載)